暗転のこと

普段はその事を忘れているだけで人は孤独である。しかし孤独というのは人が生きていく上で余りに耐え難く辛いので、日常の中で孤独を思い出す瞬間は少ない。

と私は思っている。

予備校時代、1年に1度だけ写真の授業というのがあった。1人にひとつ一眼レフカメラを持たされ午前中は外に出て写真を10枚撮ってくる。午後から撮った写真をみんなでプロジェクターに写して合評会をする、というものだった。

私のいた代は一眼レフの数よりも人数の方が多くて、家にカメラのある人は持参するように言われた。私の家にはデジカメがあったのでそれを持ってきた。すると先生が苦い顔をして「それじゃあダメだ」と言った。デジカメだと一眼に比べて写真の質的な意味で何か支障があるのかという旨を尋ねたら、「写真の出来不出来ではなく、世界と自分が分断される瞬間を味わって欲しくてこの授業を設けている。デジカメやスマホのカメラだと目と風景との距離感の関係で完全な暗転が出来ないからその感覚を味わうことが出来ない」と言われた。

舞台オタク界隈では、ライブビューイングや円盤など、舞台を生で観ないメディア媒体に依拠するファンのことを茶の間という言葉で揶揄する。私は茶の間に対してその在り方を何とも思わないが、茶の間スタイルに比べ生で観る事の1番の意義は世界と私との分断にあると考える。

チケットをもぎられ、劇場に入り席につく。開演が近づくにつれ人が沢山周りに増えてきて開演5分前にはアナウンスがある。携帯の電源を落として暫くすると、ブザーと共に客電が落とされる。あの一連の儀式において、私はこの世界にひとりぼっちになる。

どんなに現実が悲しくて辛くても、儀式を通して私は世界から解放される。

なので私はあまり客席を使った演出が好きではない。それはそうしたあたたかな孤独がフィクションであることを示唆する演出であるからだ。まあ別に、客席演出のある舞台はそうした約束のもと行われるものだからそれはそれで客席演出の良さというものがあるのだと思うが。

末満健一さんが、役者時代完全な暗転のために蓄光のバミリを一切使わず感覚で立ち位置を覚えていた話がとても好きです!分かる!