友達の話

大学に入ってしばらく、周りの浮かれた奇抜な服装とか奇抜な言動とかに対して拒否反応が出て、あんまり他人と話したりできなくなっていた。

私の大学は1回生は中高の時みたいにクラス分けされて、自分の席があって、そこで制作をしていたから、周りの席の人はいつも固定のメンバーだった。そこで、斜め前に座っていたエスニックな服装の短髪の女の子と仲良くなった。

当時その友達と私は少し似ていたと思う。飽きっぽいところとか、何にでも興味があるところ、「ちょっと悪いこと」に憧れつつ火遊びはできないところ、恋愛体質なところ、頼まれたら断れないところ、など。たまたま同じ舞台の部活に入った後も、体育会系(とはまたちょっと違う舞台独特の熱っぽい)ノリについていけず、打ち上げや新歓では周りそっちのけで2人でよく喋っていた。

友達とは学科が別だったので3回生からは以前ほど頻繁に話さなくなったが、それでも学内でたまに会うと話したりしていた。

ある時からたまに会う友達の雰囲気が段々変わっているような気がした。服装とか、目立つ言動とかではなくて、もっと些細な、取るに足らない何かが変わっていた。

人づてに友達は知らない間に展示で知り合った小説家の男の人たちの集団と仲良くなっていると聞いた。友達は拍車をかけて段々自分を置いてどこかへ行ってしまうような、遠くに見えることも多くなった。その男の人たちというのは、どんな人なんだろうと、気になった。

昨日、その友達に誘われて、男の人たちの展示のクロージングパーティーに行った。知り合いでもないのに4000円払ってクロージングに参加するのは初めてだった。出町柳のバーの一角で、DJの音楽に揺れながら絵そっちのけで酒を飲んで作品や人生について語る、そういう古風な京都の若者の風景がそこにはあった。

ものを作ることと人生を生きるということは矛盾してるのに、ものを作らないと生きられない人がいて、そういうままならなさを私は愛している。酒なり音楽なり何かに酔っていないと生きていけない脆弱な精神は都会の富や豊かさが与えてくれる贅沢なプレゼントだと思う。バーでの風景は自分は体験したことのない話や、におい、音に溢れていて、今でもどういう気持ちであの思い出に向き合ったらよいのか分からない。

家を出て、そろそろ年を越そうとしているが、自分のお金で自分の好きなように生きられる今の環境や生活が、わたしは好きだ。実家は半ば捨ててきたため帰る場所が無くなっているのだが、それでも今の生活が好きだ。

そうは言っても不安だから、昨日の風景に対して複雑な感情があるのだと思うが、それでも私は他人と人生の寂しさを舐め合って、形の模倣に陶酔したりしたくない。ふつうに生きていきたいし。