作品について

私は口から生まれたというくらい口先ばかりの人間なのでそこのところお願い致します。

 

私は絵を描いているけど、絵よりも口で喋ったり文章にする方が得意だと思う。

私は版画とかいう全くバエない、バイト先とかで「へえ美大なんだ!何やってるの?」「版画です」「へえ…」というやりとりを何回もする専攻にいる。そして版画の中でもマイナーな技法をしている。そして作品も全然バエない。

リトグラフの技法をやってると、演劇のことをよく思い出す。版画は同じ像を何枚も刷る事ができる、いわば印刷の下敷きになっている古典的な手法である。ただ、私の技法は同じ像を紙の上に浮かび上がらせる事が非常に難しい。版自体も非常に不安定で、例えば版画で1番ポピュラーな木版だったら版木さえあれば5年経っても10年経っても刷れるが、私の技法で使う版はもって1年といったところでうまく保管しなければ再び同じ像を刷る事は叶わない。版自体も平らで、どこに像があるのか分からない。ただ、本当に、確かにそこに描いた時間や筆跡が存在している。不思議な技法である。

演劇は劇場自体は演じる舞台があって客席があって、それ以外には何もない。何もないところから数日でリノリウムがひかれて暗幕が張られて照明が吊り込まれて舞台セットが運び込まれる。そして公演が終わると数時間でまた元の空っぽの何かになる。さっきまで確かにそこにあったのに、たとえ再演されたとしてももう2度と元の像を視界に結ぶことはない。

誰かにとって次の瞬間には忘れてしまう、意識すらしていない一瞬の風景が、誰かにとっての永遠で、誰かにとっての人生になるという事実が残酷で耐えられないと思い幼い頃から生きてきた。そこにあったのに、それを誰も知らない事が辛くて寂しくて、ただそれは一種の救いでもあり、それがまた辛い。

リトグラフは死にゆく技法とよく言われる。版を作る会社も日本ではもうひとつしかないし、リトグラフが出来る大学も片手で数えられるくらいしかない。リトグラフの展示を観にいくといつも同じ人の名前ばかりだ。印刷が発明され、元々工業的な用途で必要とされてきた版画の技法たちはその存在意義を追われて今は工芸と同じようなジレンマの中で細々と生きている。その中でもリトグラフは飛び抜けて面倒くさくて飛び抜けてよく分からない技法であるからやる人が少なくて、死ぬとかなんとか言われてるんだと思う。

演劇に関しても日本の政治に関しても思うが、死ぬなら死んだらいいと思う。それに良いも悪いもなくて、多分そういうもんなのだ。人だって死ぬしリトグラフが死ぬこともある、演劇が死ぬこともあると思う。ただ「もしかしたらもう死ぬかも」と思いながら生きられるのは何だか特別贅沢な感じがするのだ。

私は卒業したら多分リトグラフはもうやらないし、数年後には滅んでいるかもしれない。道端に落ちた重い平らな石に描かれたモノクロの絵画を見て美しいと思う人がいたなら、それはそれで良い事だと思う。どちらかというとそういう作品でいたいなとか、まあめっちゃ難しいからあんまり本気ではないけどな。