12/18 龍如生存if本について(雑感)

まず、当日・通販で本を買ってくださった方、本当にありがとうございます。

現地で「いつも読んでます!」「応援してます!」などとお声がけいただいて、本当に嬉しかったです。後から通販で購入いただき感想をくださった方も本当に細かいところまで読んでくださっていて胸が詰まりました…。

私情で現在通販の発送が滞っておりますが、来週には残りの方も発送できると思うのでしばしお待ちください。申し訳ないです。

 

あと、そもそもウェブでのそのそ書いていた細切れの文章にハートをくださったり、リツイートしてくださったり、感想をくださった方々、ありがとうございました。

生存ifという人を選ぶ内容にあたたかい言葉をもらえて、本にするきっかけになりました。

 

 

今更なのですが長めのあとがきのようなものを書きたくなったので書きます!

 

自分の中でひまわりはBLでないという気持ちがありまして、どちらが攻め・受けとかは無いと思って作っています。

ただ、現状性的な接触がある場合は表記をして周知しなくては語弊を生むので便宜上そのようにしている、というのが言い訳です。

自分でも「性的接触は無くてもいいのでは」と思うことが多々あるのですが、お互いの気持ちが言葉以上に通じ合う瞬間とか間接的な命のやりとりをする、みたいな関係性を表現するのに手っ取り早いのと、自分の性欲優先でそのような形になっています。

 

私は本の最後にも書きましたが、ひまわりの2人はあくまで最初から最後まで「対等」と思っています。

極の後、錦山が生きて身体が不自由になって「対等」で無くなることは何より桐生さんの方が辛いんじゃないか、と考えて書いたりしています。

錦山の方はある意味理不尽なことには慣れきっていて、色んなことを諦めるのは上手いんじゃないかと思いつつ、桐生さんの前で昔みたいに桐生さんに近しい感情を向けることはできない、みたいな?自分でも錦山の心境はあまり想像がつかず今もブレブレです…。

あくまでずっと気高い錦山に、桐生さんは最終的に安心して気持ちをぶつけられるようになるんじゃないか、そうなると錦もそれを受け止めるだけだから、慣れっこなのではないだろうか、そうなると両思い(恥ずかしい)までは早いのでは?と思ったり…。

桐生さんは「錦はどうせずっとそばにいるだろ」という驕りがあると思ってるのですが、極後はことあるごとに錦がどっかに行っちゃわないか不安で不安で仕方ないのではないか。ペアルックとかしたがると思う!恥ずかしい!と思って最後の話を入れました。

桐生さん、記念日とかも覚えてるようになっちゃうと思うしそうなると逆に前の週から分かりやすくソワソワしだして錦がめっちゃ居心地悪くなる。

 

ウェブ版を読んでいた方はあっ!と思ってくださったかもですが、ウェブの方は極以前も性的な関係が常態化しているていで書いていて、生存後も紆余曲折あり関係を持つようになっています。ただ、本にする段で身体のあれこれを生存後の描写で入れるのにめっちゃ悩み…。

結果的に生存後桐生さんが錦に性的な感情も含めて大きな気持ちを持っている自覚を持つという話にしてます。

でもやっぱりエロシーンが書きたくなりペーパーを作った次第です…。エロ魔人…。

入れる・入れられるってどうしても攻め受けの関係が出来てしまうし、ただでさえ身体のハンデとか現状までの負い目もあるのにあまりに残酷だなと思って、結構ウェブに載せてたエロシーンよく書けてたなと思うのですがばっさり切りました。

そこらへんは自分の性行為に対する偏見とこだわりが…。

 

今回本を作るにあたり、同人活動自体が誰のためでもなく自分のための活動だということを再確認いたしました。錦ごめん!て気持ちとそれでも幸せになってほしいというエゴまみれの作品です…。幸せって何⁉️と哲学的なことを思ったりもしました。

とは言いつつ、もし読んだ感想いただけるのであれば一言だけでも何かいただけると大変嬉しかったりします。強欲ですみません。

また懲りずに何か発行しようと思っておりますので、またどこかでお会いすることがあれば何卒よろしくお願いします。

仕事を辞める

 仕事を辞める。

 元々美大に行くことを親から了承してもらった時に、今の就職先が決まっていた。ある意味で就活で悩むことはなかった。

 好きなことを仕事にしている同級生が多い中、美術のびの字もない就職先に、内定が出た時もなんの感慨もわかなかった。こうやって生きてきたからこうやって生きていくんだろうと思ったぐらいだ。

 


 大きな会社の中で配属された中枢から遠く離れた離島のような部署は女の人しかいなかった。みんなびっくりするくらいのんびりしていて、びっくりするくらいに優しかった。

 わたしは、大学ではじめてまともな体育会系の部活をした時に、集団行動に対して著しく拒否反応が出たのがコンプレックスで大学時代とにかく沢山のアルバイトをした。ゆるいバイト、きついバイト、色々あったけどその中でも最もゆるい職場だと思った。今もその認識は変わらない。

 


 そんな中で、早口で現場の職員をまくしたてている課長に出会った。課長は本当に口調がきつく、口がうまく、2時間以上の残業が常態化している職場において定時退社をし、べらぼうに仕事ができた。優しくのんびりした職員に納期や締日を急かし、書類上の些細なミスに金切声をあげて、時に職員を泣かす課長に、例に漏れずわたしもよく怒られた。

 このご時世に、訴えたら必ずパワハラになるようなこともたくさん言われた。1年目は帰りが終電ギリギリになることもままあった。

 そしてそんな課長は部署の中で浮いていた。はっきりと本人に悪口を言う人もいた。人事に相談に行く人もいた。わたしも他部署の偉い人から課長は新人に対して特に厳しいから、どうしても辛かったら相談しておいでと何度か言われた。

 わたしは何故か当時から課長のことが嫌いではなかった。今でも不思議だ。

 


 仕事を辞めます、と転職先の内定が出た次の日に言いに行った。その場では「そう、残念だわ。」と思ってもない口調でひとこと返されただけだった。

 2日後、デスクに置き手紙があった。「今日、夜空いてたら飲みに行きましょう。」とだけあった。コロナ禍に就職したわたしは職場の飲み会というものを経験したことがなかったため、いきなり部署の1番偉い人と2人で飲みに行くのはかなり緊張した。

 時間をずらして駅前で集合して、街中のカウンタータイプの料理屋に来た時は正直生きた心地がしなかった。

 


 課長は酒の席でわたしの話を聞きたがった。わたしは下戸なのでお酒を飲まなかったが、とても緊張していたので自分の身の上をできるだけ軽めに話した。美大の話を聞きたいとのことだったので、美大でない人が望む美大のキャッチーなエピソードのいくつかを話した。

 わたしは課長の話も聞きたかった。課長は自分のプライベートな話を一切しない人だったので、部署の人は課長の年齢も知らない。わたしも未だに曖昧だ。(おそらく課長とわたしは桐生さんと大吾くらい離れている)

 課長はとても苦労している人だった。苦労を苦労としないことで立っている人でもあった。身の上だけで苦労が分かる人は、言語化しない行間にもぎっしり辛いことが詰まっている気がする。

 世間は理不尽なことばかり起きる。わたしはそうした理不尽を、自分を可哀想がることで何とかやってきた弱い人間だから、理不尽を理不尽としないこと、それに対して自分にも他人にも同じだけ厳しくあることで自分の足で立つ人はそれがどんなやり方でも一定の尊敬に値すると思っている。

 自分を哀れまないこと、他人に同情を求めないこと。とてもむつかしいことだと思う。

 


 ひとことだけ、わたしに「わたしもろうさんくらい若かったらね、」と話してくれたことくらいが、課長の見せた弱い部分だったように思う。

 


 もうひとり、辞めると話した直属の先輩がいて、先輩と課長はびっくりするくらい仲が悪かった。どちらも悪い人でないのに不思議だと思っていた。

 


 先輩とも一度お茶をした。先輩は私大の文学部で芸術学を専攻していた人で、私が美大であることをよく褒めてくれていた。

 先輩は、親が放任で「好きなことをしなさい」という家で育ったらしい。実際、弟は芸術学で博士課程まで進んでいる。

 しかし、先輩は昔からそういう風に自由に(見える)生き方を選択出来ない人だったそうだ。私に対して、弟を見るときと同じような憧れの眼差しを向けてしまう、と言っていた。

 


 私は自由な人間ではない。宙ぶらりんなだけである。

 この子があなたの弟だよ、と全然知らない子どもに会わされたとき、今日まで使っていた名前が明日から変わるよと告げられたとき、自分を自分たらしめていた自分以外の足元ががらがらと瓦解する音を聞いた。

 「選択できない」というのは、できなかったとしたって選択しないことを選択しているという責任が発生している。しかし「できない」という言葉選びに滲む自由意志の欠如は、時に人を他責的にする。

 政治だってそうだろう、と思う。選ばないことで選ばない責任が生活に少しずつ侵食していることに、選ばない人は気がつかない。

 しかし選ばなかったら誰がわたしを救ってくれるのか、否、誰も救ってくれない。わたしのことはみんなどうでもいいから。

 それが自由ということなら、わたしはかなり自由な人間だと思う。

 ただ、どこかの大学のパンフレットにも書いてあったが自由は望んで手に入れるものではない。わたしは今振り返っても自由に生きるしかなかったと思う。やりたいようにやるために今この瞬間も生きている。

 


 課長に「わたしとあなたは似ている。」と言われた。

 似ていないと思う。わたしはそんなに強くないから。

 


 仕事を辞めて、自分を好きになれるだろうか、最近はそれだけが不安だ。

オタクが選ぶおすすめ本

「本を読みたいんだけど、普段読む習慣が無い人にもおすすめの本はある?」と聞かれることが多いので、個人的に好きで読みやすいと感じている著者や出版社、シリーズものなどをざっくばらんに紹介していこうと思います。

 

 はじめに、本を読む習慣がつかない、もしくは集中して本が読めないという人へ。

本は読まなきゃ!と思って読むもんでもないので食指が進まないようであれば読まなくてもOKです!

 とりあえず何かしら本を読もう、というとき、新品の本を本屋さんで買う人、図書館で借りてみる人、kindleで電子版をダウンロードする人…いろいろだと思います。普段の行動パターンと異なる動きを自発的に行う、ということが何よりもその個人にとって価値だと私は考えます。

 本を選ぶとき、表紙のイラストを見たり、帯の知っている芸能人を見たり、可愛い装丁を見たり…、それだけで楽しいです。

わたしは買っても読めなかった本が大量にあるタイプなので、本棚に並んだ読んでない本を見て「沢山あるものから好きなものを選定する」体験を買った、と思うようにしています。無理に読もうとして活字が苦手になるより、読みたいものを読みたいときに読めばいいと私は思います。

 本を読む腐女子の選ぶ腐女子がとっつきやすいやつを選んだつもりです!アハハ!

 

●著者

三浦しをん

 中学の時にハマった作家①です。著者自身普段はBL小説ばっかり読んでます!とインタビューで語っていたことを成人してから知りました。えっこれはBLやんと確信する小説(『月魚』)もありますが、同性・異性問わず友達より濃いけど恋愛ではない、みたいな微妙な関係のふたりがお話のエッセンスとして組み込まれていることが多いです。私のBL観(なにそれ)は三浦しをん司馬遼太郎に育てられました。

 明るい話も多いですが、本当に暗いやつ(『光』)も多く、暗いやつがほんとは書きたいんだろうなこの人…、と思っています。

 今も沢山書かれている方ですが、私は短い話(『きみはポラリス』『天国旅行』)をいまだによく読みます。

おすすめ 

『月魚』

どこに出しても恥ずかしくないBLです。イチャイチャすな~。古本屋さんの話です。

昔BLに限らず性的描写そのものが苦手だったので、性的描写ない長いお話(BL)だ!と感動した思い出があります。

『きみはポラリス

短編集。BLばなしも入っています。片思いの話だけを集めています。

好きな人の骨を食ったりする。

 

●叢書

文藝春秋出版「はじめての文学」シリーズ

 児童向けに編纂されているシリーズで、主に現代の作家を取り扱っています。12冊出ていますがどの作家も読みやすいし、聞いたことある名前も多い気がするので知っている作家のものから読んだらいいと思います!字も大きいし装丁も可愛い!

 私は12人の中だと宮本輝が一番好きです。へへ。

 

ちくま書房出版「中学生までに読んでおきたい日本文学」シリーズ

 これも児童向けに編纂されているシリーズですが、作家が明治~昭和初期の作家になります。本文がやや文語調だったりしますが、小中学生に向けて作られている本なので難しい言葉とかは解説が本文の下に載っています。親切。

 純文学読んでみたいけど急に図書館の分厚い叢書や全集を借りるのは怖いよママー!という人は是非。

 このシリーズは「悪人の物語」「ふしぎな物語」「いのちの物語」など編纂者が定めたテーマごとに作品が寄り集まっているんですけど、選んでいる人のセンスが本当にいい。

 私はまさに12歳の時母親に買ってもらって今も手元に持っているのですが、とにかく今読んでも「このテーマにこの作品入れるの!?」という驚きがあります。12歳が読む恋の話に人間椅子を入れるな。

 わたしは「悪人の物語」が圧倒的に好きで何回も読んでいます。本当におすすめ!

 

●新書・学術系

ちくまプリマー新書

 ちくまLOVEなので…。新書というのは新書判(105×173mm)という細長サイズで出版される本で、いわゆる学術書とか専門書の入門編みたいな感じの本です。各出版社が様々なトピックスについて新書を出しています。

 新書、いろいろあるけれどやっぱ難しい…となることが多いのですが、ちくまプリマー新書は児童向けの新書です。日常の素朴な疑問や心の悩みみたいなとっつきやすいトピックスについて論じられているものが多くて、暇なときに斜め読みしています。

 

NHK100分de名著 ブックレット

 NHKで月曜の夜中にやっている100分で1冊、難解な本の解説を行う番組の解説本です。番組そのものをよく観るのですが、番組を観ていなくてもブックレットを読めば大体内容が分かります。読み返せるし、好きな回のブックレットは買うようにしています。

 番組自体めっちゃおもしろいのでおすすめですよ!

 

 以上です。読みやすいやつを選んでみたのですが、どうだろうか?

 素敵な読書ライフをお送りください。

友達の話

大学に入ってしばらく、周りの浮かれた奇抜な服装とか奇抜な言動とかに対して拒否反応が出て、あんまり他人と話したりできなくなっていた。

私の大学は1回生は中高の時みたいにクラス分けされて、自分の席があって、そこで制作をしていたから、周りの席の人はいつも固定のメンバーだった。そこで、斜め前に座っていたエスニックな服装の短髪の女の子と仲良くなった。

当時その友達と私は少し似ていたと思う。飽きっぽいところとか、何にでも興味があるところ、「ちょっと悪いこと」に憧れつつ火遊びはできないところ、恋愛体質なところ、頼まれたら断れないところ、など。たまたま同じ舞台の部活に入った後も、体育会系(とはまたちょっと違う舞台独特の熱っぽい)ノリについていけず、打ち上げや新歓では周りそっちのけで2人でよく喋っていた。

友達とは学科が別だったので3回生からは以前ほど頻繁に話さなくなったが、それでも学内でたまに会うと話したりしていた。

ある時からたまに会う友達の雰囲気が段々変わっているような気がした。服装とか、目立つ言動とかではなくて、もっと些細な、取るに足らない何かが変わっていた。

人づてに友達は知らない間に展示で知り合った小説家の男の人たちの集団と仲良くなっていると聞いた。友達は拍車をかけて段々自分を置いてどこかへ行ってしまうような、遠くに見えることも多くなった。その男の人たちというのは、どんな人なんだろうと、気になった。

昨日、その友達に誘われて、男の人たちの展示のクロージングパーティーに行った。知り合いでもないのに4000円払ってクロージングに参加するのは初めてだった。出町柳のバーの一角で、DJの音楽に揺れながら絵そっちのけで酒を飲んで作品や人生について語る、そういう古風な京都の若者の風景がそこにはあった。

ものを作ることと人生を生きるということは矛盾してるのに、ものを作らないと生きられない人がいて、そういうままならなさを私は愛している。酒なり音楽なり何かに酔っていないと生きていけない脆弱な精神は都会の富や豊かさが与えてくれる贅沢なプレゼントだと思う。バーでの風景は自分は体験したことのない話や、におい、音に溢れていて、今でもどういう気持ちであの思い出に向き合ったらよいのか分からない。

家を出て、そろそろ年を越そうとしているが、自分のお金で自分の好きなように生きられる今の環境や生活が、わたしは好きだ。実家は半ば捨ててきたため帰る場所が無くなっているのだが、それでも今の生活が好きだ。

そうは言っても不安だから、昨日の風景に対して複雑な感情があるのだと思うが、それでも私は他人と人生の寂しさを舐め合って、形の模倣に陶酔したりしたくない。ふつうに生きていきたいし。

 

人が羨ましい話

私は今3人でルームシェアをしている。私以外は大学院生である。私は入学したての学部の頃から院に行く選択肢も無ければ作家になる選択肢も無かった。特に卒業してからやりたいことも無かった。「じゃあなんで美大に?」と思う人もいるかもしれないが、私としてはネームバリューを求めて特に興味もない学問分野の学部に入学し4年間を過ごして就職する人の気持ちがまったく分からんので平行線だと思う。

院に行くことを選んだ人、もしくは学部を卒業してそのまま就職することなく作家を選んだ人、そういった人が時たま羨ましくなる。家や個人の事情は人それぞれなので金が無かろうが親から反対されようが院に行こうと思えば行けるだろうし作家になろうと思えばなれる。

私が羨ましいのはものを作る上での自分の手先の感覚や、自分自身の「気持ちいい」感覚を信じられる事である。私は大学でほとんどものを作らなかった。それでも4年弱週4予備校に通い大学もなんとか卒業したので人よりはそういう感覚があるとは思うが、自分自身の好きという気持ち、気持ちいいという感覚をいつも信用出来ずにいる。どこかで「お前の作るもんなんか」と誰かが言っている気がする。

私は特別貧乏な家に生まれたわけではない。両親どちらも正社員共働きで役職もあるので世帯年収で言えば平均より高い。兄弟3人共大学まで行かせてもらっているし。お金のことは上を見るとキリがない。(ちなみに下を見てもキリがない)

ただ、少し複雑な家に生まれて複雑な思春期を過ごした事、自分の生来の繊細な心の機微、手先や他人への不器用さなどが起因して人より少し脆弱な人間になったことが、たまに心に重くのしかかる。ふつうの愛され方をされていたら、とか、昔から好きな服を着せてもらえていたら、とか、美術をやることや本が好きなことを肯定してもらえてたら、とかそういうことを思う。もしものことも言いだすとキリがなく、多分気質として面倒くさがりの私は「ふつう」の家に生まれていたら美術や本は好きじゃなかったと思う。人にそこそこに優しくも出来なかったと思う。他人に興味ないから。

高校の時、奇妙なことに所謂スクールカーストの高い女の子達とずっと一緒にいて思ったのは、自分が思うキラキラで理想的な生活を営んでいそうな人も、自分とは違う悩みを持って、自分と同じように深く悩んでるということだった。「彼氏にセックスを強要されて拒まない」とか「毎週月曜昼ごはんを食べているそんなに仲良くない部活のグループから抜けたい」とか、自分だったら悩まない事で泣くほど本気で悩んでいる彼女たちを見て、色々な切迫した現実があるんだなと感じた。

自分がふつうの家に生まれたかった、と思うのと同じように「もっと顔が綺麗だったら」とか「男の子に生まれられていたら」とかまあどうしようもない事で、それを生まれながらに持っている人に対して激しく嫉妬する経験は誰にでもあると思う。私は他人に強い感情を持つのが苦手なので、嫉妬のような強い執着の気持ちをどう扱っていいのか分からないけど他人は他人、私は私と思えるくらい自分の目に見えるものや手に触れるものを大切に出来たらなあと思う。

通り雨

高校に上がる時におやすみプンプンを買って読んだ。自分の心の故郷になっている漫画のひとつである。

プンプンは幼い頃に出会った初恋の女の子に人生を狂わされるストーリーなのだが、本人自体普通の男の子である。一方でプンプンのお母さんはチョー破天荒で、魅力的なキャラクターのひとりである。

ネタバレになるのであまり詳しく書かないが、あるシーンのプンプンママの台詞がおやすみプンプンを通して1番好きである。

「フフ……なんかさ…、…今こうして雨宿りしてるみたいに、一時的な不安や孤独から逃げまわるだけがあたしの人生なんだとしたら、…なんて人生って悲しいんだろう。」

職場からの帰り、大雨が降った。駅から家までまあまあ歩く。雨足が強くなるのを電車の車窓から見送りながらどうしようかなと考えていた。

最寄駅はいつになく人でごった返していた。皆迎えに来る誰かを待っているようだった。少し歩いてバスのロータリーに出ると、バスやタクシー以外の車がたくさん止まっていて、駅舎の屋根の下にいる人の何人かが車に乗り込んでは車が発進し、その空いたスペースにまた新たな車が停まるということがひっきりなしに行われていた。

私は傘を持ってきていなかったから、駅舎の屋根を飛び出し道路の向かいにあるコンビニで傘を買わなくてはならなかった。数十メートルの距離を歩いただけで靴の中がビチャビチャになるくらいの雨だった。コンビニで割高の傘を買った。この大雨の中では心許ないビニール傘をさしながなら、自分には戻る場所がないと思った。

それは悲観的な感傷というよりは、「戻る場所が無いという事はどこへでも行けるな」という全能感みたいな、ウキウキした気持ちで、多分これからも家を買ったりとか、車を買ったりとか出来ないししないだろうなと思った。不景気とかじゃなくて、同じ会社で働くのは向いてないし、保険に入ったりとかも向いてないし、結婚するにしても主婦になるのは向いてない。だから政治に対して何の感情も湧かないのかもしれないと思った。固定資産を持てるほどの給料が無くても、夫婦共働きでないと自活していけない事も別に今は困ってないし。

家以外の雨宿りする場が自分には沢山あって良かったなと思うし、ひとり雨に濡れる寂しさに酔える性格で良かったなと思うし、酔ってる自分を冷笑できる人間で良かった。

劇団鹿殺し「パレード旅団」感想

2017年冬の舞台で、行きそびれてDVD買うかな…と悩みに悩んでもう3年ですね。買いました。

世界を変えるために少年は言う。「復讐、しませんか?」
世界を変えるために父は言う。「今日かぎり、父さんは父さんをやめようと思う。」
ふたつの旅が、始まる。

https://youtu.be/LVGDvgnfp0I

ネタバレになるからあんまり内容について書けないのですが、初めて観る感じの演出で面白かったです。観る前にあんまあらすじ読まない方がいいと思う。

鹿殺しは「俺の骨をあげる」を観に行ったほか銀牙やリボステなど.5舞台の演出作も観たのですがとにかく骨太で小劇場の泥臭い感じがたまらん!という魅力がある劇団やと思っています。.5やとアニメのオープニング曲をそのまま舞台のオープニングにも持ってくる感じとか今どきコテコテでカッコいいなと思う。

「家」がテーマなんかなと個人的には思ってました。家という言葉は「イエ」という読み方のほか「ウチ」とも読めて、人が長期的に居住する建築物という意味はもちろん、舞台の中ではいち個人の「居場所」や外と内、世間と自分とで分けた中の「自分」のように扱われていると感じました。

特に小劇場でよくある(と勝手に思っている)、演出家の言いたいことを役者、つまりフィクションの中のキャラクターに言わせる手法、基本怠惰だと感じるのですが言いたいことの普遍性であったり演出の自然な感じであったりも相まって「ま、いっか良いこと言ってるし」みたいになりました。

「私は何を演じているのかしら」

Twitterでも度々言ってるシェイクスピアの「人生は動き回る影帽子〜」の引用小劇場で使われすぎ問題ですが、そういったテーマでありながら引用されなくて、逆にシェイクスピアの引用が無い!になりました。

役者を好きになると、全然そういうテーマじゃない舞台でもあの引用のことを思います。役者ってどうやって自我保ってんねやろね。

上京するか悩んでて、インターネットなどで日夜上京した人、するか悩んでいる人の書いた文章を読んでいるんですが「無理だったら地元に帰ったらいい、と思えるから頑張れる」という文章を見かけて、「家」という概念は物理的なものというよりかは精神的な意味として人の心に存在するのではないかと思います。

普段「家」に集まって住む家族が危機を前に崩壊して、初めて「家」に集まった学校に居場所ない中学生達が危機を前に家族になる構図、今となっては割と違和感なく観られるな〜というか、そういう時代に生まれられて幸せなことですね。