手紙を書く

今現在も情緒が安定しているとは言い難い場面も多々あるものの、中学〜高校、そして浪人生時代より幾分マシだと自認している。当時は人の助けを借りないと生きられない器量なのに人への頼り方をあまり知らなかったために突然人前で泣いたり怒ったりという事がたまにあった。(今もあるけど…)

ストレスの解消の仕方は人によって様々だと思うが私は「自分の悲しみや怒りを言葉にすること」でストレスを発散していると最近感じる。

私は中学生くらいから辛いことがあると人に渡すつもりのない手紙を書くという奇妙な行為を行ってきた。手紙は本当に便箋を用意する。具体的な宛名も書く。相手は友達だったり話したことのないクラスの憧れの女の子だったり、好きな先生だったりする。その時は本当にそれを渡すつもりで、「この言葉はキツすぎるかな」とか「こういう事をあけすけに書くと引かれちゃうかな」考えながら推敲する。そうして出来上がった手紙は枕元に置かれ数日間ほったらかしにした後自分で捨てる。

元々人に手紙を書いて渡すという行為がとても好きだ。私はスマホを持つのが人より遅かった事もあってメール文化に殆ど触れずに生きてきたからかなと勝手に思っているけれど、もっと単純にそもそも他人に何かをあげることが好きで気持ちを言葉にするのが好きだからかもしれない。私は渡す手紙と渡さない手紙を書く。渡さない手紙は架空の他者の目を通して私が私の輪郭を掴むために存在しているのかなあと思う。

大学で絵を描いて作品を作ることがどうにも苦手で、しっかり制作をしている人に比べると作品制作という点ではどうしても4年を無為に過ごしてしまったなと思うことが多い(それも自分にとって大切な時間だったのかもしれないが)。昔から絵を描くのが好きだと思ってたけれども、ものを作る行為そのものが渡すつもりのない手紙だったのかもしれない。作品は完成するとその瞬間に私とは全く違うものとして世界に存在するようになると言っていた人がいたが、私は私の心にある悲しみや苦しみを作品を作って別の世界に離して楽になりたかっただけなのかもしれない。作品は渡す手紙であるという認識がわたしの中にはあるので、渡さない手紙はあまりにひとりよがりであるように思う。

ファンレターは私の中では渡す手紙と渡さない手紙の中間に位置する。なんとなく。

知らない人に手紙を書くなんてなって最初は思っていたけど、相手から返事が来ることが無い事や、読んだかどうか定かでない事などとても気が楽だと感じる。勿論相手は一応実在のある人なのでそういう敬意は払いながら文章を書くのだが、本当に作品を通じて自分の考えた事柄や、自分の生活と地続きになった瞬間などを正直に書ける場としてファンレターという器が存在している事の幸福さというものを最近は噛みしめている。

好きなわかはいが、ファンレターについて「紙を選んだり、文章を考えたり、鉛筆で下書きをしたりする工程があって、それだけ時間をかけて手紙を書いてくれている事が嬉しい」的な事を言っていて、それはプレゼントなど人に贈答するものであれば何でもそうなんだけど、やっぱり贈り物のなかでも手紙って特別だと信じたい。わたしの中ではそうなので。