神話性と2.5次元の未来について

最近バンバン2.5次元舞台やるじゃないですか。端的に言うと何でもかんでも舞台化するのは嫌だなと思ってるんですけど、じゃあどういう漫画(もしくはアニメやゲーム)原作が舞台化に相応しいのかという考察です。個人的な趣味も入りますのでご了承ください。

次の文章は私の大好きなNHKの「100分de名著」という100分間で難読な著作を専門家が分かりやすく解説してくれる番組で、ヴィクトル・ユゴーレミゼとかノートルダムの鐘の原作者)が特集された際の内容の一部です。

ノートル=ダム・ド・パリ』はヴィクトル・ユゴーという作者がいるにもかかわらず、むしろ、こうした「作家性」が成り立つ以前の、譬(たと)えて言えば「神話」のような要素を含んでいるのです。
神話というのは、ギリシャ神話にしろ日本神話(『古事記』)にしろ、だれもテクストを読んだことはなくても、その内容くらいは知っているものです。実は、これが神話の特徴なのです。つまり「おおまかなストーリー」はあるけれども、これといって定まったテクストがないということなのです。「おおまか」という意味は、新しく神話の創造に加わろうとする人が現れると、細部を変更してもかまわない約束になっていることを意味します。神話は歴代の書き手、語り手が自由に細部を付け加えた結果、さまざまなバリエーションをもつ物語に膨れ上がっていますが、おおもとのストーリーそのものは変わりません。

(中略)

ノートル=ダム・ド・パリ』は再話(リメイク)や編集(アレンジメント)に耐えるという意味においても神話的と言うことができます。

(中略)

ノートル=ダム・ド・パリ』も映画化やミュージカル化に際しては細部は無限にバリエーションが加えられますが、根幹に変化があるわけではないのです。

 

ノートル=ダム・ド・パリ』は神話的小説である NHKテキストビュー

http://textview.jp/post/culture/32027

抜粋が下手で分かりにくかったらすみません…。ユゴーは大学の文学の授業で取り上げてもらった事があってテキストでも若干読んだことあるんですけど勿論完読はしてないです。その上で話半分で聞いてね…。

レミゼ(もしくはノートルダムの鐘)観たことある人は分かるかなと思うんですけど、さまざまな登場人物が乱立的に出てきてそれぞれが非常に生き生きとドラマチックに描かれているのがユゴーの特徴かなと思います。番組の中でも言われてたんですけど非常に現代の漫画的な表現に近いんですよね。そういう意味でも漫画作品が舞台になるのは、商業的な意図やライト層の獲得という目的以外に、題材としてかなり必然性があるように番組を振り返って思いました。

そんな中でやっぱり「テニミュ」が凄いなと思うのは、考えれば考えるほどテニプリがかなり演劇にしやすい題材という事です。ここからは私の独断と偏見の話です。

まず、演劇というもの自体が再読を想定していないと私は考えています。(舞台オタクの人は何回も行くのでアレですが…)基本的に見返す事が出来ないので、一度で明快にストーリーや作品の魅力が伝わらねばならないとならないいうのは特に演劇に関しては大切な要素かと思います。そういう意味でも私は「鑑賞者に概ねストーリーが明かされた上で」物語が展開されていく、という手法が商業演劇としては鉄板ではないか?と思う。つまりは観る人が序盤で「あっこれこういう話だな」と分かる事が大切。そういう意味でテニプリは話の筋が「主人公のチームが全国優勝する」というところに集約されている、明快。実際優勝するかどうかはどちらでも良くて、あくまで全国優勝目指してこれから話が進みますという事が最初の10分くらいで分かればいい。

そして主人公の圧倒的な神話性。これはさっき抜粋してきたテキストの神話性という言葉とは意味が異なるのでややこしいんですが、ここでいう神話性っていうのは端的に言うと越前リョーマというキャラクターがそもそもめちゃくちゃ強いやんという事です。アメリカ帰りでオトンがクソ強テニスプレイヤーで1年生からレギュラーで…、何より気質としてリョーマくんが自分自身の持って生まれた才能に疑いを微塵も持っていないことが圧倒的神話性の裏付けとなるように思います。

(ちょっと関係ない話をすると、いつも髪切ってもらう美容師さんにヒロアカを勧められた際、テニプリを引き合いに出されて「リョーマくんて最初からめちゃくちゃ強くて全然感情移入出来ないけどデク君にはめっちゃ感情移入出来て泣ける!」と言われた事があるんですが、正にそういう事です。そもそもリョーマくんに感情移入は出来ないんですよ、私達は人間でリョーマくんは神なので。ヒロアカは舞台になりましたが舞台の方を観てないので今回省きます。観たかった〜!)

そんなこんなで、去年観た舞台銀牙はそうした神話性を踏襲した、題材として非常に優れたベースを持った漫画の舞台化だったので凄い!と思ったって話です。予め漫画を20巻くらいまでは読んで舞台観に行ったんですが、作品そのものも「熊を倒す」という超シンプルな話だし、銀自体が伝説的な父親と虎毛を持ち、赤カブトを倒す宿命のもとに生まれてきておりその宿命に対する疑念が本人に一切無いというのが神話なんですよね。共感の余地無い、神なので。

舞台の感想になっちゃうけど、リキと銀の嘘やんみたいな超絶奇跡の巡り合わせと神の所作とも言うべきお互いの予感みたいなやり取りを生身の人間でやられるともうダメですよね、ズルいよなあ〜って気持ち。めちゃ泣いたわ。

いつまで2.5次元やってんだみたいな声もある中、私は今のような派手な立ち位置で無くていいので末永くサブカルチャーとして存在していて欲しいと思っています。ただ、やっぱりそろそろ質の事考えた方が良くない?と色々観てると思うので自分なりに普段考えていることをふんわり文章に起こしてみました。

後これも主旨とはズレるけど、役者はもっとずる賢くなった方が良い。役者に限らず表現の仕事をする人は仕事を選んだ方がいいし、ストライキをした方がいいしそうする事で日本で作られる様々な芸術作品の質が上がると思います。消費者がものを選ぶように作り手も作りたいものや携わりたい作品を選んだ方が楽しく生きていける!と信じたいです。昔ながらでしか生まれないものもあるけど、失われた感覚は変わっていった先で考えたらいい派なので。楽観的!