政治

私の心に残っている舞台、いくつかあるがその中のひとつにうさぎストライプという劇団の「みんなしねばいいのに」という作品がある。ハロウィンの日を繰り返すというお話で、ハロウィンという最近入ってきた海外の文化にかこつけて騒ぎまわる人々と終末観を重ね合わせたニヒルなブラックジョークが演出のあちこちにあり、ひいては作品自体がそのような意味を含んだものになっている。数年前に、今は無きアトリエ劇研という京都の小劇場で観たのだが、入った瞬間に坂本慎太郎のナマで踊ろうがかかっていたのを今でも鮮明に覚えている。

 

『決してこの世は地獄 なんて 確認しちゃだめだ

もうそんなのみんな知っている

楽しい事話そう もっと お化粧した俺は

いい感じで目が死んでるね』

政治が上手くいく事なんて果たしてあるのだろうか。

私は日本史や民俗学がちょっとだけ好きだが、革命等で政治が大きく変わって上手くいっている様子をあんまり見たことが無い。政治だけじゃなくてパラダイムシフトによって社会の価値観や生活文化が変わり、それまで辛い思いをしていた人が幸福になっても、またどこかでその割りを食う人が出てくるように考えてしまう。

人間という生きものが生まれて600万年ほど、世の中は良くなっているだろうか?私にはよく分からないのだ。

決してリベラルな意見出しや議論をして欲しくない、という事ではない。停滞した空気は淀んでいるように、定期的に換気をして誰かが新しい風を吹かせなければならない。

ただ、(これはジェンダーを巡る議論に関しても思うことだが)既存の停滞した空気の中で息をする術をなんとか身につけ、生きている人間が、新しい風に対して消極的な態度を取る事は、前述のリベラルな意見を否定する事とイコールにはならない。加えて言うと、政治のような、立場によって様々な意見が生まれるトピックにおいて傍観という基本態度をとる事は悪ではないとわたしは思う。よく言われる事だが、傍観という「政治的態度」をとっているという当事者意識さえあれば(極端な話、後から後悔する事が無ければ無くとも良い)そういう姿勢だってデモを行う権利があるように権利として保証されている。

「結局現状生活で困ってないから怒れないだけでしょ」その通りである。そしてはっきり言うと生活に困っていなくても政治に怒っている人ほど生活に余裕があるわけでは無い。無関心層と言われる人々はそういう人が多いのではないかと勝手に思う。

私は誰も私のことを助けてくれない、と思っているしだから私は誰のことも助けない。政治だってそうで、もしかしたら年金は取られるばかりで払われないかもしれないし、コロナがいつまでも収束せずに好きだった演劇産業が死ぬかもしれない、政治家は汚職まみれで私腹を肥やしているかもしれないけど、正直そんなのはどっちでもいい。明日も仕事があるし、今日は雨だったから洗濯物が干せないし、牛乳を切らしているのに買い忘れたし、母の日なのにまだ何もしてない。明日世界終わるかもな、岩城くんのバーイベ行きたかった、そんな感じ。

※このブログ自体何か思想的な事を議論したいものではなく、ただ自分の気持ちを出力しただけのものである、という予防線を張った上で、自分と同じように無関心である事に罪悪感を覚える人々と自分が気を落とさないように気持ちを形に残しておきたくてブログを書いてみた。また何か心境の変化があれば書こうと思う。